漢詩・漢文

2012年10月21日 (日)

大きな大げさ、小さな大げさ

 漢詩や漢文は表現が大げさだ、とよく言われます。李白の「白髪三千丈」なんていうのはその典型で、3000丈とは約9.3km。たしかに、誇張にもほどがあります。

 でも、大げさな表現を好むのは、漢詩文には限りません。日本の古典によく出てくる「涙で袖を絞りにけり」なんていうのも、冷静に考えれば「そんなバカな!」というところでしょう。文学というものは、誇張表現を内蔵しているもののようです。

 誇張というと、実際よりも大きく見せることのように思いますが、その逆もあります。たとえば、陶淵明は『帰去来の辞』の中で、地方官を辞めて自宅に戻ったときの心地よさを、次のように歌っています。

 「南窓なんそうに倚りて以って寄傲きごう
  膝を容るるの安んじ易やすきを審つまびらかにす」

 南向きの窓に寄りかかってくつろぐと、狭い我が家の落ち着きやすさがつくづく実感される、というのです。

 ここで気になるのは、「膝を容るる」という表現。自宅が狭くて「膝がやっと収まるくらい」だというのですが、いくらなんでも、それは大げさ! こういう、小さい方への誇張表現も、文学の中には探せばいろいろあるのかもしれません。

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 秋も深まって、だいぶん寒くなってきました。ぼくはここ数年、男らしくもなく冷え性に悩まされていて、机に向かってじっと仕事をしていると、足先が極度に冷たくなって、放っておくと体全体の調子が悪くなってしまいます。

 そこで、昨年から導入したのが、写真のクッション。ちょうど足先が入るようにできていて、中に使い捨てカイロを入れておけば、冷え性対策は万全です。おまけに、節電にも効果あり。大泉学園のゆめりあフェンテの中にある雑貨屋さんで偶然、見つけて、重宝しています。

 ちょうどつま先が入るくらいの心地よさ。そこから、陶淵明を思い出したという次第。つま先であれ膝であれ、「ぴったり感」というものは落ち着くための重要な要素なのです。

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2012年6月29日 (金)

スズメが教えてくれたこと

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 父のところへ行く途中、梅雨空の下を散歩がてら歩いていたら、並木道にスズメが何匹も舞い降りて、なにかをついばんでいるのに出会いました。落ちているのは、小さく赤黒くて、毛玉みたいにちょっとぽわぽわとした実。

 見上げてみると、濃く茂った緑の葉っぱの合間に、ダーク・レッドのつぶつぶのアクセント。あっちの枝にもこっちの枝にも、いっぱいいっぱい成っています。

 なんという名前の木なのだろう?

 そう思って、写真を撮って持ち帰り、調べてみると、ヤマモモの実なのだとか。あまずっぱくて、そのままでも食べられるけれど、ジャムやジュースにもするそうな。

 ヤマモモは別名で「楊梅(ようばい)」というとのこと。そこで思い出したのは、8世紀の中国の大詩人、李白の「梁園吟(りょうえんぎん)」の一節。

  玉盤の楊梅 君が為に設け
  呉塩(ごえん)は花の如く 白雪よりも皎(しろ)
  塩を持ち酒を把(と)りて 但(た)だ之(これ)を飲まん

 宝玉でできたお皿にヤマモモの実を盛り、呉の国で特産の真っ白な塩を添える。これを肴にお酒を飲むというのが、伝説の酒豪、李白さんのスタイル。荘魯迅先生の『李白と杜甫 漂泊の生涯』(大修館書店、2007)では、この詩句をふまえて、李白と杜甫が飲み屋さんで出会い、李白が楊梅と呉塩を注文するシーンがあります。

 これが、あの楊梅だったのですねえ。

 ジャムやジュースもいいけれど、お酒のおつまみにも合う。スズメさんたちも、なかなか舌が肥えているようです。

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2012年3月27日 (火)

モクレンは乱れ散るか?

Photo  コブシの花が咲き始めた。

 咲き始めのコブシの花は、まだ葉の出ないシルバーの枝先にとまった、純白の小鳥のよう。早春の青空に照り映えて、美しい。毎年、その姿を眼にすると、いよいよ春がやって来るんだな、という気分になる。

 コブシは漢字では「辛夷」と書くのだが、多くの植物の名前と同じように、中国語としての「辛夷」は、コブシではないらしい。モクレンを指すのだという。そこで、漢和辞典では「辛夷(しんい)」という項目に、まずモクレンを載せて、その後に日本語ではコブシを指す、と付け加えるのがふつうだ。伝統的な漢和辞典の世界では、中国語としての意味の方が優先だからである。

 「辛夷」がうたわれた漢詩としては、7世紀の詩人、王維の「辛夷塢」が有名だ。「塢」とは土手を意味する漢字で、音読みにはオとウの2つがある。「辛夷塢」とはコブシの咲いている土手のことで、「しんいお/しんいう」と読む。

  木末(ぼくまつ) 芙蓉(ふよう)の花
  山中 紅萼(こうがく)(ひら)
  澗戸(かんこ) 寂(せき)として人無く
  紛紛(ふんぷん)として開き且つ落つ

 枝先に咲いた辛夷の花は、まるで芙蓉の花のよう。山奥で赤い花びらを広げている。谷川沿いの家はひっそりとして人の気配がなく、ただ辛夷の花だけが乱れ散っている……

 この「辛夷」は、赤い花だからやはりコブシではない。だが、「紛紛として開き且つ落つ」というところは、モクレンともそぐわなくないだろうか? そこで、王維が詠んだ「辛夷」は、ひょっとするとコブシでもモクレンでもないのではないか、などと思ったりもする。王維の時代と現在とで、「辛夷」が同じものを指しているという保証はないのだし。

 そうなってくると、お手上げである。ただ、漢詩の鑑賞ということでいえば、そういう詮索はひとまず置いて、王維の描いた美を感じ取ることができれば、それで十分のような気もする。

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