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2012年3月

2012年3月30日 (金)

言われてみれば多いよなあ……

 語学が大の苦手である。何年もかけてコツコツやるというのが、向いていないんだろうなあ、と思う。だから、楽器をやっても上達しないし、体を動かすのだって続かない。仕事をするようになってから、多少、コツコツやる習慣が身についたものの、やっぱり、三つ子の魂なんとやら。このまま、東京弁と関西弁のバイリンガルのみで、一生を終えるんだろうなあ。

100

 お世話になっている納村公子(なむら・きみこ)さんから新刊をいただいた。『中国人が日本人によく聞く100の質問』(三修社)。サブタイトルに「中国語で日本について話すための本」とあるように、中国語ができる日本人向けの内容だから、ぼくなんかお呼びではない世界だ。ただ、その「質問」を眺めているだけでも、けっこう楽しい。

 「日本は面積のわりに人口が多いようですが、人口はどれくらいですか」
 「日本はどうしてカラスが多いのですか」
 「日本の街にはどうしてあんなに多くのドラッグストアがあるのですか」
 「サラリーマンは帰りによくお酒を飲むのですか」
 「日本の空港に白タクは多いですか」
 「温泉に入ると病気が治るのですか」

 そうか、こういうことが「質問」になるのだな、と納得させられることしきり。いい「質問」とは、相当な力量がないとできるものではない、と改めて感じる。ちなみに、タイトルには「100の質問」とあるけれど、これは100のジャンルについての質問、という意味で、実際には400〜500くらいは質問が載っているのではないだろうか。

 語学が苦手なぼくとしては、こういうところで異文化体験を積むしかない。そうして、それはもちろん、自国の文化について考え直すことにもつながる。なかなかありがたい本である。

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2012年3月27日 (火)

モクレンは乱れ散るか?

Photo  コブシの花が咲き始めた。

 咲き始めのコブシの花は、まだ葉の出ないシルバーの枝先にとまった、純白の小鳥のよう。早春の青空に照り映えて、美しい。毎年、その姿を眼にすると、いよいよ春がやって来るんだな、という気分になる。

 コブシは漢字では「辛夷」と書くのだが、多くの植物の名前と同じように、中国語としての「辛夷」は、コブシではないらしい。モクレンを指すのだという。そこで、漢和辞典では「辛夷(しんい)」という項目に、まずモクレンを載せて、その後に日本語ではコブシを指す、と付け加えるのがふつうだ。伝統的な漢和辞典の世界では、中国語としての意味の方が優先だからである。

 「辛夷」がうたわれた漢詩としては、7世紀の詩人、王維の「辛夷塢」が有名だ。「塢」とは土手を意味する漢字で、音読みにはオとウの2つがある。「辛夷塢」とはコブシの咲いている土手のことで、「しんいお/しんいう」と読む。

  木末(ぼくまつ) 芙蓉(ふよう)の花
  山中 紅萼(こうがく)(ひら)
  澗戸(かんこ) 寂(せき)として人無く
  紛紛(ふんぷん)として開き且つ落つ

 枝先に咲いた辛夷の花は、まるで芙蓉の花のよう。山奥で赤い花びらを広げている。谷川沿いの家はひっそりとして人の気配がなく、ただ辛夷の花だけが乱れ散っている……

 この「辛夷」は、赤い花だからやはりコブシではない。だが、「紛紛として開き且つ落つ」というところは、モクレンともそぐわなくないだろうか? そこで、王維が詠んだ「辛夷」は、ひょっとするとコブシでもモクレンでもないのではないか、などと思ったりもする。王維の時代と現在とで、「辛夷」が同じものを指しているという保証はないのだし。

 そうなってくると、お手上げである。ただ、漢詩の鑑賞ということでいえば、そういう詮索はひとまず置いて、王維の描いた美を感じ取ることができれば、それで十分のような気もする。

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2012年3月24日 (土)

遠くにありて思うもの

 出版社で働き始めて間もないころ、なにかの拍子に上司から「朝の連続ドラマ、観てる?」と聞かれたことがありました。とっさに出た返事が、「いいえ。その時間にはもう会社に向かってますので」。思えば、かわいくない新人でありました。そして、のんびりした会社であったのです。

 最近では15分繰り上がって8時ちょうどから始まるようになったとはいえ、9時始業の都会のサラリーマンにとっては、朝ドラなんて別世界。ぼく自身も、まさか毎日、朝ドラを観る生活をすることになるなんて、昔は思ってもみませんでした。

 さて、いよいよ大団円を迎える「カーネーション」。今週は、夏木マリさんのすごみのある台詞回しに加えて、江波杏子さんも登場。ほとんど口を開かないないのにあの存在感はさすがです。

 でも、一番、うれしかったのは、山田スミ子さんのご出演。検索してみると、「家政婦は見た!」シリーズをはじめ、幅広くご活躍されているそうですが、ぼくにとってはやはり、「あっちこっち丁稚」のご寮さん役がなつかしい。毎回、前田五郎さんに平手打ちを食らわしていらっしゃったあの雄姿が、今でも忘れられません。

 吉本新喜劇「あっちこっち丁稚」は、ぼくの小学校高学年から中学生にかけて、日曜の午後といえば何をおいても観なくてはならない番組でした。友だちと遊びに出かけるにしても、「あっちこっち丁稚」が終わってから。当時の関西の子どもたちにとっては、今でたとえるなら「探偵!ナイトスクープ」級の人気を誇っていたのではないでしょうか。

 今やすっかり男を上げた間寛平さん。今も昔も変わらぬアホの坂田さん。お体の具合が心配な木村進さん。そして、花紀京さん、チャーリー浜さん、井上竜夫さんなどなど、思い出すだけでうれしくなってきます。ああいうパターン化された笑いは、ほとんど「文化」だったのではないでしょうか。

 ああいう「文化」の中で多感な少年時代を送った人間が、遠く離れた世知辛い東京で生きていくのは、やっぱり、なかなかキビシイところがあるなあと、改めて感じた次第でして……。

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2012年3月22日 (木)

違うけれどふさわしい!

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 図書館に本を返しに行く途中で、マンサクの花が咲いているのを見つけた。枯れ枝に黄色い糸くずがクシャクシャッとからまっただけのような、花と呼ぶのがちょっとためらわれるくらい、地味な花だ。

 マンサクの語源は、ほかの花よりも早く「まず咲く」からだ、という説を読んだことがある。ただ、漢字で書くと「満作」だという。「豊年満作」から取ったというのだが、いまひとつ、イメージが湧かないよなあ。

 漢字では「金縷梅」とも書くらしいが、中国語としての「金縷梅」は正確にはシナマンサクという樹木のことで、マンサクとは異なるらしい。金縷梅を当てるのは誤り、と言い切っている辞書もある。

 「縷」とは「糸」へんが付いている通り、細長いひもを表す漢字だ。音読みで読むとルで、「せつない恋心を縷々として訴える」のようにも使われる。だから、「金縷梅」とは、「金色のひものような、梅と同じころに咲く花」を指すのだろう。

 マンサクとシナマンサクは別もの、というのは、近代的な博物学の分類上でのお話。それはそれとして、ある樹木の名前を漢字でどう書き表すかには、別の観点があっても悪くはないだろう。

 「金縷梅」という漢字を思い浮かべながら、改めてマンサクの花に目を凝らすと、なんだか金モールの細工みたいに見えてきた。地味だなんてとんでもない! ゴージャスな雰囲気すら漂ってくる。

 マンサクの立場になってみれば、「満作」と書かれるよりも「金縷梅」と書かれる方がいい気分がするに違いない。

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2012年3月20日 (火)

本の発売日

 雑誌はきちんとした発売日が決まっているものだけれど、本はそうでもない。もちろん、出版社に問い合わせると、「何日発売です」と教えてはくれる。でも、よっぽど発売が待ち望まれている話題の本でもない限り、その日付はそれほど厳密なものではない。

 本ができあがると、一部分は出版社に「見本」という形で届けられるが、大部分は、「取次」に運ばれる。「取次」とは、出版業界の問屋さんのこと。ここが、全国の書店さんにどんな本を何冊運ぶかを管理していて、1つ1つの書店さんへと配本してくれるのだ。

 配本には、通常は中3日かかる。つまり、月曜日に見本ができてくれば、金曜日に配本が済む。ただし、見本出来が火曜日以降だと、土日を挟むので、結局は配本までに中5日=約1週間かかると考えた方がいい。ただし、書店の方では、配本されてきた商品をすぐに店頭に並べるとは限らない。翌日だったり翌々日だったり。売れそうにもないものだと梱包も解かずに返品することもある、というのは、ホントかウソかは知らないが、編集者の間でよく言われる話だ。

 それはともかく、出版社の方では、配本日の2〜3日後を発売日として設定していることが多い。だから、出版社のいう公式な「発売日」の前日や前々日でも、書店によっては、その本を店頭に並べていることもあるのだ。

 ぼくの10冊目の著書、『漢字ときあかし辞典』(研究社)の見本ができてきたのは、先週の火曜日(13日)。中3日プラス土日で、昨日、配本になったというお話だ。早いところでは、今日、店頭に並んでいるかな。いや、明日にならないと並ばないかな。

 今回の拙著は、日常でよく使う漢字2320字について、意味や用法をわかりやすく、読みものとしても読めるように解説した「読める漢字の辞典」というコンセプト。原稿書きから組版まで独りでこなして、ここ1年半くらいは、土曜日曜も関係なく、朝から晩までほとんどこの仕事に没頭しておりました。本体価格2300円と少々お値段は張りますが、ページ数が700に近いことを考えると、そこそこお買得ではないか、と。金子泰明さんによる装丁は遊び心にあふれていて、じっくりご覧になるといろいろ楽しめることも請け合い。ぜひ、ご覧になっていただけましたら幸いです。

 その前に、配本された『漢字ときあかし辞典』がきちん梱包を解かれて、書店の棚に並びますように!

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2012年3月18日 (日)

いくらなんでも長すぎない!?

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 取引先に宅配便などを出そうとして、困ってしまったこと、ないですか?

 住所を書いたあとに、「ほにゃらら株式会社なんちゃら事業所ふにゃふにゃ制作部むにゃむにゃグループ」なんて、えんえんと書かなくてはならなくて、よっぽど小さい字でないと、送票の宛名欄には収まりきらない。大きな企業だと、そうやってきっちりと組織を作り上げないと機能的に動いていかないのだろうけれど、対外的にはどんなものかなあ。

 出版社に勤めていたころ、ある電機メーカーさんにあるデータを焼いたCDを送ろうとしたら、「うちは部署名まできちんと書いていただかないと、社内で行方不明になることがあるので、よろしく!」と言われたことがあった。そんなアホな! どんだけでかい会社やねん!! と思ったけれど、ほんとうにそうだとしたら、社内用の郵便番号でも決めてもらって、外部からはそれを書くだけで目的の部署に届くような工夫でもしてほしいものだ。

 それで思い出したのが、左の写真。江東区の富岡八幡宮には、歴代の横綱の名前を刻んだ「横綱力士碑」があって、1900(明治33)年にこれが最初に建てられたときに協力した人の名前も一緒に刻まれている。その中に、日清戦争の下関講和条約を結んだことで知られる中国の政治家、李鴻章(りこうしょう)の名前もあるのだが、その肩書きが、すごい。曰わく、

 「大清帝国欽差頭等全権大臣太子太傅文華殿大学士北洋通商大臣直隷総督一等粛毅媾和大使伯爵」

 全部で42文字。読んでみると「ダイシンテイコク、キンサトウトウゼンケンダイジン、タイシタイフ、ブンカデンダイガクシ、ホクヨウツウショウダイジン、チョクレイソウトク、イットウシュクキコウワタイシ、ハクシャク」となる。大きな石碑の上から下までずらずらずらっと文字が続いて、目立ってしかたない。この羅列そのものが、「どうだい、オレは漢字の本家、中華帝国のトップなんだぞ!」と主張をしているようだ。

 それにしても、李鴻章さんに何かをお願いするときには、これを全部書かないと手紙を届けてくれない、なんてことだと、たいへんだったろうなあ。

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2012年3月16日 (金)

「太」の新しい読み方?

 今週は何度か、山手線に乗る機会があったのだけれど、車内でやたらと目立っていたのが、UCOMという会社のインターネット接続サービスの広告。タレントの山口智充さんが、「ギガぐっさん」なるものになって活躍するコンセプトらしいのだが、そこに出てくるキャッチフレーズが「光ぶっ太い」。「ひかりぶっとい」と読むのだが、最初はなんと読めばいいのか、ちょっととまどってしまった。

 ぼくは兵庫県の出身だから、関西弁の「ぶっとい」に違和感があるわけではない。それを「ぶっ太い」と書き表すのを見るのが、初めてだったのだ。

 ぼくの勝手な思いこみでは、「ふとい」に力がこもると「ふっとい」に、さらに強調されると「ぶっとい」になる、というように感じていた。その点、「飛ばす」に「ぶつ(打つ)」が付け加わった「ぶっ飛ばす」とは異なり、「ぶっとい」はそれ以上、分解できない1つの単語だ。だから「ぶっ太い」と書かれるのになじめないのだろう。とはいえ、ググってみるとわかるように、最近ではこの書き方もそれなりの市民権を得ているようだ。

 「太」という漢字は、ふつうは音読みでタイ、タと読むか、訓読みで「ふと(い)」と読む。それを、「ぶっ太い」の場合は「と(い)」と読んでいるわけで、漢字の新しい読み方の誕生だといえるのかもしれない。

 ただし、漢和辞典的には、これを単純に訓読みに分類するのは、ちょっと抵抗がある。なぜなら、この「と(い)」はあくまで「ぶっとい」の一部分だからだ。つまり、この「と(い)」は単独では意味を持たない。とすれば、「ぶっ太い」の「太」も意味を持たないわけだから、「ぶっ太い」は当て字的な表現だ、ということもできるのかもしれない。

 なんにせよ、「ぶっ太い」はちょっと変わった漢字の使い方だ。ある単語の後半部分だけを漢字で書き表すというのも、ほかに例があるのだろうか。なかなか興味深い。

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2012年3月14日 (水)

源泉徴収票の紙のサイズ

 ようやくのことで、確定申告の書類を提出。2月の中旬にはほとんど準備ができていたのに、そのあとずいぶん怠けてしまって、結局は例年のごとく、ぎりぎりになってしまった。反省しないといけないなあ。

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 確定申告では経費の計算ももちろんたいへんだけれど、それよりもぼくがめんどくさく感じるのは、所得と源泉徴収額の計算。編集や執筆の仕事をしていると、取引先も多いので、源泉徴収票の数も多くなる。それを全部整理して合計するのは、まあ、それほどたいしたことではないけれど、用紙に貼りつけるのがめんどくさいのだ。今年の場合は、19枚あるから、写真のような感じ。少しずつずらして貼りつけていくけれど、だいぶごわごわして、見た目はかなり、かっこ悪い。

 この源泉徴収票、会社や団体によって作り方がまちまちなのも、困ったところ。手書きの頼りなさそうなものもあれば、きちんと控えまで付いているありがたいところもある。中には縦長のものもあれば、横長のものもある。用途としてはこうやって貼りつけて税務署に出すものなのだから、せめて紙のサイズだけでも統一してくれないかなあ。そうしたら、こんなブサイクな書類にならずに済むのに……

 それはともかく、これだけの数の源泉徴収票があるのに、金額を合計してみると、とてもお寒い状態になってしまうのが、哀しいところだ。だって、ほとんどは数万円程度のものなんだから。今年の最小額は、とある出版社の国語の問題集にぼくの文章を使ってくれた、その著作権使用料で、収入が4104円、源泉徴収額は410円也。それでもきちんと払ってくださるのには本当に感謝。でも、こういうのを見ていると、さすがに、1枚の源泉徴収票に数百万円の収入が書かれていたサラリーマン時代が、なつかしくなる。

 というわけで、こうやって源泉徴収していただいた金額のほとんどが還付されるということに相成ります。来年はもう少しまともな納税者になれるよう、がんばらなくては!

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2012年3月11日 (日)

誤植指摘のタイミング

 出版社の編集部で働き始めて、4〜5年くらい経ったころのことだ。すでに自分が担当して何冊かの教科書と何冊かの単行本を世の中に出すことができて、仕事をだいたい一人で回せるようになってきたかな、と思っていたころ。仕事に対する自信が付いたといえば聞こえはいいが、逆に見れば、少々、高ピーになっていたころでもある。

 右隣の席に座っていた後輩の女性が初めて担当した単行本が、できあがってきた。新刊は部内で回覧するのが、編集部のならわしだ。できたてほやほやの本が、早速、ぼくの手元に回ってきた。どれどれ、彼女はどんな仕事をしたのだろう、と思ってページを開く。その瞬間、いきなり誤植が目に飛び込んできたのである。

 善は急げ、だ。ぼくはすぐさま、自分の席で仕事をしている彼女に「ここ、誤植じゃないかなあ」と指摘した。すると、左隣に座っていた大先輩が、こうおっしゃったのである。

 「円満字くんね、そういうことは、しばらく経ってからこっそり教えてあげるものだよ。」

 担当した本ができあがってくるのは、いつだってうれしいものだ。そんなときにわざわざ誤植の指摘をするなんて、大人げない。それが、初めて担当した本ならば、なおさらだ。重版の機会があるまで誤植の修正はできないのだから、それまでの間に、ゆっくり指摘してあげればいい。

 書籍や雑誌の編集者にとって、校正とは、必要とされる基本的な能力の1つだ。ただ、それは「他人の間違い探し」だから、ときには気をつけてやらないと、とても「人が悪い」ということになりかねない。誤植の指摘にも、TPOがあるのだ。

 そのときのぼくは、確実に「ちょっと仕事ができると思い込んでいる人が悪い先輩」だった。だから、そのことをきちんと教えてくれた大先輩のことばが、いまだに忘れられないのである。

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2012年3月 8日 (木)

ヨアライとは何ぞや?

 テレビを付けっぱなしにしたまま、本を読んでいたら、TOKIOの国分太一さんが、ヨアライ、ヨアライと何度も言っているのが聞こえてきた。目をやるとすぐに画面は切り替わってしまったのだが、どうやら食器洗浄機用の洗剤のCMだったらしい。ヨアライとは「予洗い」のことで、洗浄機で洗う前に、食器をあらかじめ簡単に洗っておくことをいうようだ。

 そんなことばがあるんだ……、と思っていくつか国語辞典を調べてみたけれど、案の定、載っていない。ただ、ネットで検索すると、意外にもたくさんヒットする。食器洗いだけでなく、洗濯だとかお化粧、あるいは髪を洗うときにも使うことばらしい。

 漢字の「予」を音読みで読んで、そのあとに「洗い」という訓読みを続けるのは、いわゆる「重箱読み」というやつだが、このことばの場合はいかにも座りが悪い。「下洗い」とか「前洗い」とかいっておく方が落ち着くのになあ、と感じるのは、ぼくが漢字に関する仕事をしているからだろうか。

 考えてみると、この「予」の使い方はちょっと特殊だ。「予告」「予言」「予約」「予防」「予定」「予算」「予習」などなどの「予」は、どれも「あらかじめ」という意味だから、「予洗い」の「予」と同じように思える。だが、「予洗い」のあとには「本洗い」があるわけだが、「予告」や「予言」のあとに「本告」「本言」があるわけではない。「本番の前にとりあえずやっておく」という意味で「予」が使われる例というと、日常的に使われるところでは「予選」や「予鈴」、そして「予行演習」があるくらいか。

 そんなことを思いながら、ネット上の『大辞林』(三省堂)を見ていたら、「予洗」と書いてヨセンと読む熟語が見つかった。意味は「下洗いと同じ」だと書いてある。ヨアライは、この熟語から生まれたことばなのだろう。ヨセンと言われると「予選」がすぐに思い浮かんでしまうから、「洗」だけを訓読みにしたのかもしれない。

 たしかに、ヨセンよりはヨアライの方が伝わりやすいことばではある。ヨアライとは何ぞや? と思いつつも、たいていの人の頭の中には「予・洗い」という字が浮かぶからだ。

 それは、ぼくたちの頭が子どものころから長い時間をかけて、漢字にそういうふうに訓練されているということでもある。日本人の脳の力たるや、恐るべし、なのである。

(追記)その後、「予洗い」については続稿「ヨアライ再び…」を書きましたので、そちらもご覧ください。

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2012年3月 6日 (火)

ハシラの外は、あと何ミリ?

 ここのところ話題になっている、三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』(メディアワークス文庫)を読む。たしかにおもしろいなあ。本にはその内容とは別個に、その本とその読者とだけが生み出す物語がある。そのことを、堪能させてもらった。かわいくて胸の大きな女性が表紙に描かれた本を買うのは、この年になると何かと気が引けるのだが、それを乗り越えてレジまで持っていった甲斐があったというものだ。

 ただ、この本を読んでいてぼくが落ち着かない気分になったのは、ヒロインの栞子さんが魅力的だからだけではない。

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 たいていの本には、ページの余白の部分に、各章のタイトルなどが小さな文字で印刷されている「ハシラ」と呼ばれる部分がある。最近、そのハシラがページの端にかなり寄っている本を、よく見かける。この本もその1つで、ハシラの上端からページの紙の端までのアキは5ミリ。何かの拍子に、ハシラの文字が紙の外へと転げ落ちてしまわないかと、心配になるのだ。

 文庫本はサイズが小さいから、余白が狭くなるのもしかたない。とはいえ、ハシラから紙の端までの距離は、ふつうは10ミリ前後はある。メディアワークス文庫の5ミリというのは、かなり狭い。ハシラの下端から本文の上端までは、6.5ミリ。これを逆転させて、ハシラの上のアキを6.5ミリ、下のアキを5ミリにすれば、だいぶ落ち着くんじゃないだろうか。

 ただし、そう感じるのは、ぼくが書籍系の編集者だからだろう。雑誌では、1ページに収める情報量を多くするため、余白はかなり小さくしか取らない。言ってみれば、書籍には余白があるが、雑誌には余白はない。書籍のページは、紙の大きさとは別個に、本文が印刷されている部分(これを「版ヅラ」と呼んでいる)が確固として存在するという二重構造になっているのに対して、雑誌のページは一元的なのだ。

 そういう意味では、最近よく見かける、ハシラが転げ落ちそうな本は、雑誌的な感覚で編集されているのかもしれない。善し悪しの問題ではなく、ちょっと大げさに言うならば、世界観の問題なのである。

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2012年3月 3日 (土)

かっぱえびせんのりしお

 幼いころは、食が極端に細い子どもだったらしい。だから、ちょっと好きなものがあると、親はとても喜んで、そればっかり食べさせてくれたようだ。そのせいだろうか、ぼくは食に関してはかなり問題のある大人になってしまった。偏食というわけではない。食に関しては、極端に開拓者精神に乏しいのである。

 ぼくが勤めていた出版社は、神田の神保町にあった。近所には、おいしいレストランや定食屋さんが山ほどあったらしい。「らしい」というのは、ぼくはそんな恵まれた環境を、いっこうにありがたがらなかったからだ。神保町に17年近く通いながら、お昼を食べたことがあるお店といえば、10軒くらいしかないんじゃないだろうか。同じものをくり返し食べることが、まったく苦にならない性分なのである。

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 そんなわけで、スナック菓子でも、かっぱえびせんを延々と食べ続けて、もう30年以上になる。もちろん、ポテトチップスも食べる。サッポロポテトのバーベキュー味も食べる。最近では、おにぎりせんべいが東京でも手に入りやすくなったので、これも食べる。ただ、この4つ以外には、あまり手を出さない。わざわざ冒険しなくても、この4つが与えてくれる平和に、十分、満足しているのだ。

 ただ、かっぱえびせんにも、時折、変わった味のものが登場する。わさび味だとか、梅風味だとか。さすがのぼくも、そのいくつかには思い切って挑戦してみた。でも、やっぱり、シンプルなかっぱえびせんがいい。フレンチサラダだけは、何がフレンチで何がサラダなのかは知らないけれど、一家を成していると認めるが……。

 さて、今回、久々にトライしてみたのが、地域限定の「のりしお」。袋を開けると、たしかに海苔の香りがぷうんと漂う。

 でも、なあ。別に、いいんだよ、ぼくは。そんなにいろいろ変化を付けてくれなくても。いつも通りであってくれれば、それでいい。新しさなんて、追い求めていないんだ。

 そんなに消極的では、いけないのだろう。もっともっと、いろんなことにチャレンジしなきゃ。たった1回きりの人生、もったいない!

 そうはわかってはいるけれど、性分だから、こればっかりはどうしようもないのである。

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