« 鳴りやまぬメロディ | トップページ | 想い出の阪急ブレーブス »

2012年2月16日 (木)

教科書の誤植のはなし

 教科書というのは「間違いがあってはいけないもの」だから、何度も何度も校正をする。ぼくが働いていたのは高校の国語教科書の編集部だったが、そこでは、1冊の教科書を必ず2人で担当するのがきまりだった。この編集担当2名はもちろん、くり返しくり返し、校正をすることになる。

 また、編集委員の先生方も、少なくても5〜6人、多いときは10人以上が見てくださる。さらに、同じ編集部のほかの編集者に校正刷りを見てもらうこともしょっちゅうだ。高校の国語教科書なんて、ページ数も限られているから、文字数もたかが知れている。これほど密度の高い校正を経て校了になる書籍も、珍しいだろう。

 ただ、それでも、残念ながら誤植は残る。そして、教科書検定の場で、「検定意見」という形でそれを指摘されることになる。

 夏目漱石の『こころ』は、今も昔も高校国語教科書の定番教材だ。その中で、主人公の「私」が友人Kに対して、次のような思いを抱く一節がある。

 「私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に祟(たた)られたのではなかろうかという気さえしました。」

 この「祟」という漢字が、「崇」になっていたことがある。「たたる」は「出」の下に「示」。一方、「山」の下に「宗」を書くと「あがめる」。ほとんど正反対の意味だ。今のような「仮名漢字変換」ではなく、文字盤から1文字ずつ漢字を探して入力していた時代ならではの誤植だ。

 こういう検定意見を受けるのは、編集者として恥ずかしい。だが、同時に、「虫眼鏡で見ないとわからないもんなあ」という言い訳がましい気持ちが、ないでもない。ただ、どうにも言い訳のしようもない誤植を出してしまったこともあった。

 教科書にはよく、「何ページ何行目参照」というような記述が出てくるが、校正の段階ではページも行もまだ動く可能性があるから、「○ページ○行目参照」というふうにしておく。校了直前に、全体をチェックしながら「○」のところに数字を入れていくのだ。ところが、この「○」が1か所だけ残ったまま、校了になってしまったことがある。

 このときは、教科書調査官には「あとでページを入れようと小賢しく考えていたのでしょうが、忘れてしまったのでしょうなあ」などと、ねちねちとかなりの嫌みを言われたものだ。ムカッと来るけれど、返すことばのあろうはずもない。ただただ、平謝り。それ以来、ぼくは、こういう場合には「○」は使わず、目立つ「★」を使うようにしている。

 そうやって、教科書調査官も見てくださった上で、教科書は検定を通過して、全国で使われるようになる。そうしてある日、ひょこっと、現場の先生からお電話をいただくのだ。

 「ここのところ、誤植じゃないですか?」

 「完璧な校正」とは、まことに、むずかしいことなのである。

|

« 鳴りやまぬメロディ | トップページ | 想い出の阪急ブレーブス »

出版・編集」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1639146/44143738

この記事へのトラックバック一覧です: 教科書の誤植のはなし:

« 鳴りやまぬメロディ | トップページ | 想い出の阪急ブレーブス »